神奈川県氷雪販売業生活衛生同業組合

氷利用のいろいろ

カキ氷

氷で一番庶民に親しみのあるのはカキ氷、カキ氷屋の元祖は明治2年(1869年)横浜馬車道通で町田房造の開いた 氷水屋兼アイスクリーム屋である。

明治36年(1903年)日露戦争の前年、実業の世界誌によると、東京市中の氷の問屋(仲買人)600軒、 氷水店3、337店、冬は焼芋屋か炭屋、4~9月の半年商売であった。


カチ割氷

関東ではぶっかき氷、名古屋、大阪、九州ではカチ割氷、甲子園のカチ割は特に有名で、昭和25年甲子園が進駐軍より返還されると、 300グラム入りのカチ割氷が1日に15,000~20,000袋毎日売れた。(関西日冷)

これが日に包装氷へと発展、昭和48年頃千葉県の小久保製氷蠅1埖泙離チ割氷を1ヶ160円で販売を開始したが これが包装カチ割氷の始まりである。

日冷グループでは千葉県の房総冷蔵が佐原工場でしょうわ51年に、 日冷グループのトーレイ製氷販売蠅昭和52年日冷芝浦工場で夫々試験生産を開始した。

小久保製氷はCDSのサンチェーンと提携、今角亮さんを昭和53年頃開始、全国の包装大量生産時代のスタートを切った。 53年150万袋(サンチェーン)、54年500万袋(セブンイレブン)と急速に伸びて行った。


花氷

明治20年7月東京製氷蠱枌蝋場で皇太子殿下(大正天皇)に御来臨戴き花氷をご覧に入れる。 大変感嘆され、早速明治天皇へのおみやげにされる。以後硬質の御用達工場となる。 1005昭和22~23年再び花氷が復活、日冷千葉工場、芝浦工場、横浜の神奈川日冷山手工場等で生産を開始した。


彫刻氷

宮内庁の料理長秋山徳蔵氏がロシヤで見た氷細工にヒントを得て、日本で初めて氷細工を始めたのが日本の彫刻氷の始まりである。 戦後東京の中央冷凍産業蠅亮卍弘謀賚始沙瓩昭和30年帝国ホテル等と組み、コックさんに彫刻氷の作り方を指導、 昭和38、9年、東京オリンピックを機に急速に全国に普及、その芸術性、清涼感から人気を博し、 有名人の結婚披露宴等には巨大な氷の芸術が人目を楽しませている。


スキー場の氷

昭和28年ニチレイが米国より角氷から雪状氷を噴射するアイスシュリンガーというという機械を導入、 同年市谷水道橋の後楽園球場に長さ100米、巾25米の仮設スキー場を造り好評を博し、 翌29年隣の空き地にもうひとつ大きい人工スキー場を造る。

昭和34年頃西武鉄道の狭山スキー場が完成、日冷荻窪工場から角氷を送りアイスシュリンガーの雪で人工スキー場のゲレンデを造る。 昭和36年日冷東村山工場から本格的に大量の氷を輸送、西武狭山スキー場のみで1~3月の間使用する原氷は5,300邸 10泥肇薀奪で530台分に達した。


ダイヤアイス

昭和32年日冷が米国より小型ダイヤアイスの機会を輸入し、日冷の子会社東洋工機が本格的に日本製のダイヤアイスマシンを製造販売、 業界への普及に努めた。この機械で角氷から3冦方の真四角な透明で堅い氷が出来る。

ニチレイがダイヤアイスと命名、業界に製法と商標を公開、広く普及した。主としてホテル、 宴会場、料理店、ファミリーレストラン等に納入、需要増大に対応して大型ダイヤアイスマシンを昭和36年日冷東村山工場、 芝浦工場に設置今日全国に普及する。


みぞれ氷

乳業メーカーが昭和32年頃よりアイスクリームのの本格生産を開始。35年~6年ごろ赤城乳業が「しぐれ(アズキ入り)」を発売、 つづいてグリコ等が続々とみぞれ氷を製造販売今日に至る。 気温が30度Cを超えると甘ったるい脂肪の多いアイスクリームからさっぱりしたみぞれ氷へと需要が変わる。


南極の氷

昭和60年日本水産が南極の氷をオキアミ運搬船に積込んで売出し、ロマンを感ずる氷としてマスコミを騒がせた。 数千年数万年前の雪が圧力で白氷になり、中に溶け込んだ空気が氷の溶けるときに音を出す。そこに南極の清らかなイメージを生む。 先般NHKラジオ対談の折、北大低温研究所所長の若浜五郎教授と南極の氷については無しをしていた処、 先生は確かに南極の氷は深い処のものは極めて純粋だが表面に近いものはかなり汚染されている。

特に1920年以降の氷は車のガソリンの鉛が南極北極の氷の中に溶け込んでいる。 世界の近代文明の生活がまき散らす汚染物質が清らかな夢の南極の氷にまでしのび寄りつつあることは誠に悲しいことである。 (ニチレイ・アイス社長田口哲也氏が富山大学で講演したもの)